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真のボランティアとは・・・尾鼻春夫さんの人生

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行方不明の2歳児を救い一躍有名になった尾畠春夫さん。
尾畠さんが歩んでこられた人生とボランティアとしてのあるべき考え方や取り組みについて振り返りました。
(かなり長い内容文です)


スーパーボランティア・尾畠春夫さんが語った「壮絶なる我が人生」

2018年8月24日(金) 現代ビジネス

お盆休みに、一躍注目を集めたスーパーボランティア・尾畠春夫さん。
山口県周防大島町で行方不明となっていた2歳男児を発見し、連日ニュースに登場していた姿は記憶に新しい。
現在、広島県呉市でボランティア活動を続ける尾畠さんに、週刊現代の齋藤剛記者が「被災地に行く理由」と「家族の話」を訊いた。


赤いつなぎと「絆」ヘルメット姿でインタビューに応える

自然に人が集まってくる
山口県周防大島町で行方不明となった藤本理稀ちゃん(2歳)を捜索開始から30分で発見して、「時の人」となった尾畠春夫さん(78歳)。
スーパーボランティアと呼ばれるようになった尾畠さんは休む間もなく西日本豪雨の被災地である広島県呉市の天応地区でボランティア活動をしている。
8月20日(月)、本誌記者も尾畠さんを追って、現地に向かった。
ボランティアが活動する被災地域に向かうと、尾畠さんの姿はすぐに見つかった。
真っ赤なつなぎに「絆」「朝は必ず来る」などと書かれたヘルメットをかぶり、汗を流していた。
尾畠さんの姿を見つけるや、住民や他のボランティアが駆け寄って写真撮影を求める。
尾畠さんは「10枚ならいいよ」と冗談を交え笑顔で応じていた。
実際、接すると実にチャーミングなおじいさんであった。
取材の旨を伝えると、「遠いところからごくろうさんです、おやっさん。まぁ座ってください」と応じながらも、「でもね、ただの変わったおっちゃんですよ。自分なんて取り上げたら売り上げが落ちるよ」と笑う。
尾畠さんは成人した男性のことを「おやっさん」、女性のことを「ねえさん」と呼び、「来る者は拒まず、去る者は追わず」が信条だという。
作業を終えた17時すぎ、避難所になっている小学校の校庭の端にある尾畠さんの拠点で、話を聞いた。
木陰スペースにシルバーの軽ワゴン車をとめ、そこで寝泊まりしているのだ。
ちなみに、ここは撮影スポットにもなっていた。
尾畠さんが活動で不在している日中は、住民やボランティアが次々と訪れ、車の中を覗き込み、記念写真を撮っていた。
尾畠さんが一人で拠点に戻ってくると、年配の女性が現れて差し入れの焼きそばを渡す。
「今日もありがとうございました。私は体が悪くて作業ができない。本当に感謝しています」
こう頭を下げる女性に対し、尾畠さんは「あれ、今日は泊まりに来たの?」とジョークを交えながら軽妙にやりとりする。
尾畠さんが言う。
「善意を断るわけにもいかないでしょう。金銭は一切受け取りませんが、差し入れであればありがたくいただきます。ただ、どうお返ししていいのか。これが悩みです」
ボランティア仲間、住民、そしてマスコミ。自然と人を引きつける人柄はどこからきたのだろうか。
尾畠さんに自らの人生を振り返ってもらった。


取材当日もボランティア活動で汗を流す

戦後の荒廃や復興、バブルも、すべて見てきた
生まれは1939年。
78歳と8ヵ月です。
戦前に生まれ、戦争を経験し、戦後の荒廃や復興、そしてバブルも経験した。
いまとなってはあの時代に生まれたことに感謝しております。
芋とカボチャばかり食う時期もありましたが、それも良き思い出です。
大分県の国東(くにさき)半島で生まれて、幼少時に現在の杵築(きつき)市に引っ越し、そこで育ちました。
父は下駄職人で、主に桐の下駄を作って販売していました。
商売は順調ではなかった。
ちょうど履き物がゴム製品に変わる頃で、下駄の販売は下降線でした。
母は主婦です。
実は母についての記憶は多くはありません。
というのも、母は41歳で亡くなってしまった。
私が小学5年生のときです。
母の死は自分の人生にも大きく影響しました。
父はもとより酒好きな人間でしたが、妻が逝き、何人もの子供を抱え、下駄は売れないという厳しい現実から逃れるためか、ヤケ酒に走ってしまった。
そして、そんな父によって、自分は農家に奉公に出されることになります。
自分は7人兄弟の4番目。
ですが、兄弟のなかで自分だけが奉公に出されることになりました。
父からの説明は「お前は大飯食らいだから」というものでしたが、納得できるわけがありません。
だから、両親に影響を受けた、なんて話がよくありますが、自分にかぎってはそんなものはありません。
というのも、小学5年生で親元を離れ、それこそ毎日草刈りやら何やらで忙しかった。
学校には行きたくてもまともに行けなかった状態です。
奉公に出されたのは、家が貧しくそれを助けるためでした。
それはわかっていましたが、父を恨みました。
なぜ兄弟のなかで俺だけが・・・。
最初はものすごく悔しかった。
とはいえ、奉公に出された以上は腹をくくるしかない。
世の中はなるようにしかなりません。
「やるだけやってやろうじゃないか」と心を入れ替えたのです。
以来、奉公に出された家のおやっさんとねえさんを親だと思って何でも言うことを聞きました。
すべては飯を食うためです。
恨みの対象だった父ですが、いつしか感謝するようになりました。
奉公の経験がいまの宝になっていますからね。
後ろ向きで得をすることなんてありません。
だから自分はプラス思考という言葉が大好きなんです。


地元住民との交流も

帰るところなんてなかった
私は昭和30年に中学校を卒業すると、卒業式の翌日に別府にある魚屋の小僧になりました。
自分の意志ではありません。
働くことになったきっかけは姉の紹介です。
「働きに出たい」と相談すると、姉から「あんたは元気がいいから魚屋になりなさい」と言われたんです。
自分にとって姉の言葉は親の次に重い。
もとより姉のことを信用していたので、それに従いました。
SL汽車で別府駅に向かう際、父から青い10円札を3枚持たされました。
「珍しく大盤振る舞いだな」と喜んだのも束の間、すぐに30円は片道切符代だとわかりました。
特攻隊と一緒です(笑)。
自分には帰るという選択肢はありませんでした。
ただし、それまでが極貧でしたからね。
魚屋に就職し、食事にあらの煮つけが出たのを見て驚きました。
それまで毎日芋とカボチャでしたからね。
こんなうまいものがあるのかと衝撃を受けました。
別府の魚屋で3年間修業した後、山口県下関市の魚屋で3年間ふぐの勉強をしました。
さらに兵庫県神戸市の魚屋で関西風の魚の切り方やコミュニケーション術を4年間学んだ。
私は10年修業した後に魚屋を開業するつもりでした。
ところが当時、貯金はゼロに近かった。
というのも、魚屋の給料は安く、開業資金をまったく準備できなかったんです。
そこで、開業資金を短期間で用意するために上京しました。
お世話になったのは、大田区大森にあった鳶と土木の会社です。
もちろん、コネなんてありませんから、そこの親父さんに「俺には夢があります。3年間働かせてください。その代わり、絶対に『NO』と言いません。どんな仕事でもやります」と直談判しました。
鳶や土木の仕事の経験は、いまのボランティア活動に役立っているかもしれませんね。
ありがたいことに、会社から「このまま残って頭(かしら)になれ」と熱心に誘っていただきましたが、自分は決めたことは必ず実行するのが信条。
これはいまも昔も変わりません。
その意味では、面倒な男かもしれません。
結局、昭和43年、大分に戻り、4月にかみさんと結婚。
そして、その年の11月に自分の魚屋を持ちました。
名前は『魚春』です。
二文字をくっつけると鰆(さわら)。
もちろん、自分が一番好きな魚です(笑)。

かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め
振り返ると、繁盛した時期もあれば閉店危機もありました。
とりわけ窮地に陥ったのは、大分でPCB(水銀)が社会問題になったときでした。
それこそ客足がピタッと止まりました。
仕入れの量を通常の10分の1程度に減らしましたが、それでも売れなかった。
このとき、助けになったのは妻の存在でした。
かみさんは料理上手で、ポテトサラダやコロッケ、キンピラなど総菜を店で販売するようになった。
これで危機を乗り切った。
妻がなければいまの自分はないでしょう。
妻との出会いは別府の小僧時代にさかのぼります。
修行していた魚屋の向かいの貝専門店の娘でした。
うちのかみさんは3学年下。
中学1年生でした。
当時は混浴の共同風呂があり、自分も彼女も気兼ねなく利用していましたが、風呂に行くのが恥ずかしくなったことを覚えています。
当時から「いつかあの子と結婚したい」と意識していました。
別府の小僧時代の1ヵ月の給料は200円でしたが、100円は自由に使い、残りは貯金した。
それもこれも彼女の所帯を持つためでした。
女房の支えもあり、商売は順調でしたが、65歳の誕生日に店を畳みました。
15歳のときから『俺は50年働く。そして、65歳になったらやりたいことをしよう』と決めていたんです。
私にはいま48歳の息子と45歳の娘がいて、孫も5人います。
息子は大学に行くこともできた。
それもこれもお客さんが魚を買ってくれたから。
皆さんが温かく手を差し伸べてくれたからこそ、いまの生活がある。
それに気づきました。
いただいた恩をお返しするのは当たり前。
それが人の仁義です。
どのような形で恩を返そうかと考えたとき、第二の人生をボランティア活動にささげようと決意しました。
「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」。
好きな言葉です。
ですから対価は一切求めません。
(週刊現代,齋藤 剛)


「社会に恩返しがしたい」

尾畠春夫さんの活動費は自分の年金から捻出していた。
2歳児を救出したのは、全国各地の被災地で活動してきたボランティアのベテランだった。

2018年08月17日(金) 朝日新聞


朝日新聞社 男児を発見した当時の様子を話す尾畠春夫さん=2018年8月15日午後1時5分、山口県周防大島町、長沢幹城撮影

活動費は年金から 風呂も断った尾畠さんが貫く信念
山口県周防(すおう)大島町で3日間行方不明だった藤本理稀(よしき)ちゃん(2)=同県防府市=を発見した尾畠(おばた)春夫さん(78)は、大分県日出(ひじ)町から軽ワゴン車で駆けつけ、1人で捜索に加わっていた。
全国各地の被災地で活動してきたボランティアのベテランだった。
「私はボランティアだから、そういうのはもらえません」
理稀ちゃんを家族に引き渡した15日、祖父から風呂を勧められた尾畠さんはそう断った。
軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側に迷惑をかけないのが信条。
「自己完結するのが真のボランティアだ」と言う。
活動費は自分の年金から捻出している。
元々は魚屋さん。
捜索中、理稀ちゃんに気付いてもらえた「よしくーん」という大声は、店先で鍛えたものだ。
ボランティアを本格的に始めたのは、大分県別府市にあった店を閉めた65歳のころ。
「学歴も何もない自分がここまでやってこられた。社会に恩返しがしたい」と思ったからだ。 

  

尾畠春夫さん、数々の名言を残しています。
その一部をご覧ください。

・人の命より重いものはない。尊い命が助かってよかった
・人に、世の中に、恩返ししたい
・今の自分があるのは周囲のおかげ。社会に貢献したい
・65歳まで鮮魚店で働いてきました。残りの人生、社会に貢献させてもらおうと思ってボランティア活動してきた
・「ボランティアは人を頼ったり、物をもらったりしちゃいけない」「自己完結、自己責任。怪我しても自己責任」
・Q.なぜ大分県からわざわざ? A.わざわざじゃないですよ。日本人だから。
・ぼろぼろの救助袋について「まだ38年しか使ってないから新しいですよ」
・日本っちゅう国は資源の無い国じゃから。だけど知恵が無限にあるんですよ

 最後にこんなメッセージも。
定年を迎えて仕事を引退する世代に向けて
「やっぱし夢を持ち続けるっちゅうことじゃないですかね。夢を持ったらそれを目標に立てて、計画を立てて、迷うことなく実行するのがいいんじゃないですか。私はそうしてるんです」


ボランティアにさえ、肩書きが欲しい「世界一孤独な日本のおじさん」
(抜粋)

2018年8月24日(金) 文春オンライン

尾畠春夫さんの活躍で注目を集めた「社会に貢献するオジサン」
山口県周防大島町で行方不明になっていた2歳男児を発見した御年78歳のスーパーボランティア、尾畠春夫さんの活躍で、すっかり、注目を集めるようになった「社会に貢献するオジサン」。
日本人のボランティア意識は海外の国に比べて極めて低いが、特に男性の関心は薄く、自治体などが主導する福祉の現場でも、ボランティアとして参加する人は女性の方が圧倒的に多い。
イギリスでは、高齢者向けの孤独対策が一気呵成に進められているが、その担い手の多くは、老若男女のボランティアだ。
自宅を開放して、孤独な高齢者をティーパーティーに招く人、自宅からピックアップして、車に乗せてそこまで連れていく人、高齢者からのホットラインの電話を受ける人、近隣の孤独な男性たちを集めて、一緒にDIYを楽しむ「男の小屋」を運営する人など、初老の男性もボランティアとして、支える側に回る。
「孤独」という問題を核に、市民が支えあい、寄り添いあう仕組みが整備されつつある。

ボランティアに名誉や肩書、見返りを求める人も
日本人男性は「ボランティア」という言葉が嫌いという説がある。
福祉的な色合いの取り組みに対するアレルギーが強い、と福祉関係者はため息をつく。
だから、ボランティアという言葉を使わず、「○○コーディネーター」「××リーダー」などといった名称になると参加率が上がるのだそうだ。
ここでもどうやら「肩書」にこだわる癖は抜けないらしい。
ボランティアに名誉や肩書、見返りを求めない尾畠さんの生き方が称賛を集めるのはこうした潔さに対する憧憬があるのだろう。
介護の現場で高齢者を長年見てきた専門家が「寝たきりや認知症になるかならないかの境目は、誰かの役に立っているという意識があるかどうか」と言っていたが、多くの人にとって、自分が必要とされている「役割」がある、という感覚は生きる支えになるはずだ。
「孤独上等」と、座して待つ生き方など、ちっともかっこいいものではない。
誰にも迷惑をかけないのだから、とウソぶいて、最後には糞尿を垂れ流し、他人に面倒を見てもらうことになるかもしれないのだ。
「誰も棺桶に一人で入っていく人はいない」(都内の福祉関係者)のである。
人間など所詮、迷惑はかけ、かけられる存在だ。
いつか、支えられる立場になるのだから、今から誰かを支えておこう。
そうやって寄り添いあう社会になれば、もっともっと、日本人は未来を楽観的に考えられるようになるのではないだろうか。
岡本 純子

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