<原発事故6年>牛舎に生きた証し 空腹乳牛が柱かじった跡
2017年3月13日(月) 毎日新聞
原発事故後に残されて飢えた牛によるはみ跡が残る牛舎の柱=福島県南相馬市で2017年3月9日、小出洋平撮影
東京電力福島第1原発から20キロ以内にある福島県南相馬市の牛舎には、原発事故後の空腹をしのぐため乳牛が柱をかじったはみ跡が残されている。
同市小高区の半杭(はんぐい)一成さん(67)は酪農家で乳牛約40頭を飼育していた。
2011年3月の原発事故で家畜の移動が制限され、半杭さんは牛が周辺の田畑を荒らさないよう牛舎につないだまま家を離れた。
牛たちの行く末は覚悟していたという。
その年の夏、死んだ牛たちを葬るため動かした際にはみ跡を見つけた。
えさが尽きても、何とか生き延びようとしたのだろう。
地面から約60センチの高さまで、柱を歯で削ったような跡がはっきりと残っていた。
震災から6年がすぎた。
半杭さんは、牛を見殺しにした責め苦から酪農を離れたが、「牛たちを忘れないという思いで牛舎を残している」と話す。
県立博物館は、原発事故を後世に伝えるため柱の型を取り、保存する方針だという。
【小出洋平】
【生きている牛たち 楢葉町で原乳出荷再開】
2016年2月12日 毎日新聞地方版
デントコーン本格栽培、秋には12トン収穫予定
住民避難が続く南相馬市小高区大富の元酪農家、半杭一成(はんぐいいっせい)さん(66)が、同市原町区の仮住まいから地元に戻り、牛のえさになるトウモロコシの一種、デントコーンを本格栽培する準備を進めている。
震災前の大富地区は多くの畜産・酪農農家が集まる一大拠点で、原発事故による避難と出荷規制で牛を見殺しにした心の傷を抱え、帰還をためらっている住民も多い。
半杭さんは「それでも前を向かなきゃ」と自らに言い聞かせ、仲間と共に古里を牛のえさの一大供給基地にする夢を温めている。
半杭さんが酪農再開をあきらめ、大富で飼料作物の栽培に取り組み始めたのは2014年からだ。
県の試験栽培という位置づけだった。
畑の除染が終わった昨年に収穫したコーンからは出荷基準(1キロ当たり30ベクレル以下)を超える放射性物質は検出されず、今年から本格栽培が認められることになった。
計画では、今年5月に自宅周辺の畑6ヘクタールにデントコーンの種をまき、秋に12トン以上のコーンを収穫する予定だ。
輸入飼料価格の高止まりが続く中、知り合いの酪農家からすでに引き合いがあるほか、県酪農業協同組合を通じて1キロ=20~25円程度で販売する予定という。
「最近は毎日ここに戻っているよ。ここに牛たちの慰霊碑を建てようと思ってさ」。
半杭さんは、大富の自宅脇にある牧場で枯れ木に電動ノコギリを当てながら、牛舎の方角に目を向けた。震災前には40頭の乳牛がえさをはみ、一日の大半を一緒に過ごした場所だ。
11年3月の震災当時の記憶は今でも鮮明に残っている。
1カ月後の4月、立ち入りを規制する警察官の許可を取り、牛たちの様子を見ようと当時の福島市の避難先から自宅に立ち寄った。
全頭が死んでいると覚悟して牛舎に近づいたが、生き残っていた数頭が飢えに苦しむかすかな鳴き声が耳に入り、その場で引き返した。
「合わせる顔がなかった」という。
昨年自宅を解体した敷地には、今も荒廃した牛舎が残っている。
「県の博物館から牛がかじった柱を譲ってほしいと打診があったが、取り壊す気持ちになれなくてね」
近所には180頭の乳牛を安楽死させるよう県から迫られた酪農家もいた。
子どものころから60年以上同じ地域で暮らしてきた仲間だ。
「一日も早く古里に戻りたいのはみんな一緒。でも、また同じようなことがあったらと考えると、もう牛は飼えないよなってさ。だから、みんなでえさをつくることにしたんだ」
【大塚卓也】