人間の戦争は動物を愛する人間に動物を殺させた、
あの時ヒョウは何も警戒せずキョトンとしていた
2022年3月5日(土) 東洋経済ONLINE
生き物たちはみな、最期のその時まで命を燃やして生きている──。
土の中から地上に出たものの羽化できなかったセミ、南極のブリザードのなか決死の想いで子に与える餌を求め歩くコウテイペンギンなど、生き物たちの奮闘と哀切を描いた『生き物の死にざま』の姉妹版『文庫 生き物の死にざま はかない命の物語』。
同書から「剝製となった動物たちの悲しみ ヒョウ」の章を抜粋してお届けする。
前回:「最強」毒グモの母が迎える最期はどこまでも尊い(2月20日配信)
戦争は死ななくてもいい命さえ奪ってしまう(写真:泡雪/PIXTA)
■毎年8月に天王寺動物園に並べられる剥製
毎年、8月になると大阪の天王寺動物園では、たくさんの剝製(はくせい)が並べられた企画展が開催される。
ライオンの剝製もある。
トラの剝製もある。
シロクマの剝製もある。
並べられた剝製たちは、どこか悲しげに見える。
なぜか、遠くを見ているように見える。
この企画展の名前は、「戦時中の動物園」である。
そして、並べられた剝製たちは、すべて昭和の戦争中に人間の手によって殺された動物園の動物たちなのである。
日本で最初の動物園である上野動物園が開園したのは、明治15年(1882年)のことである。
次いで、明治36年(1903年)には京都市動物園、大正4年(1915年)には大阪の天王寺動物園が開園した。
明治時代以降に日本が近代化し、海外との交流が盛んになる中で、動物たちは交流の証しの親善大使として、日本に送られてきた。
そして、子どもたちの人気者になっていったのである。
ところが、である。
あの忌(い)まわしい戦争が始まった。
戦争中の動物園の悲しい物語としては、上野動物園を舞台にした、児童文学作家、土家由岐雄(つちやゆきお)の童話「かわいそうなぞう」が有名だろう。
戦争が激化する中で、空襲を受けたときに動物たちが逃げ出す危険性が指摘され、猛獣たちを殺処分する命令が出された。
そして、ゾウやライオン、クマ、ワニなど多くの動物たちが、次々に殺されていったのである。
野生の動物ではない。
飼い慣らされ、親しまれてきた動物たちである。
しかし、猛獣は猛獣である。
人間の命を守るためには、彼らを殺さなければならない。
命に順番はない。
しかし、上野動物園では、殺しやすいという理由で最初にクマが銃殺された。
もっとも、銃殺されたクマは、まだ幸せだったのかもしれない。
その後、戦争に必要な弾丸を動物に使うことは望ましくないとされて、もっと悲惨なさまざまな方法で動物たちは殺されていったのである。
あるものは、毒薬を飲まされ、もがきながら、苦しみながら死んでいった。
しかし、動物の中には、毒の入ったエサを食べようとしないものも多かった。
また、致死量もわからないので、毒に苦しみながらも生きながらえる動物もいた。
■餓死させられたゾウたち
それらの動物の処理方法が絞殺(こうさつ)である。
生きながらえたホッキョクグマやクロヒョウなどの動物たちは、首にロープをかけられ、大勢の大人たちにロープを絞められた。
こうして、たくさんの動物たちが死んでいった。
なかなか殺すことのできなかったゾウのワンリー(花子)とトンキーは餓死(がし)させられることになった。
ワンリーとトンキーは、飼育員の姿を見ると、衰弱した体を寄せ合って立ち上がり、芸を始めた。
土家由岐雄の「かわいそうなぞう」は書く。
しなびきった、からだぢゅうの力をふりしぼって、よろけながらいっしょうけんめいです。
げいとうをすれば、もとのように、えさがもらえると思ったのでしょう。
上野動物園の取り組みは、全国各地の動物園でも広がっていった。
上野動物園から半月ほど遅れて、大阪の天王寺動物園でも処分が始まり、たくさんの動物たちが次々に殺されていった。
最後に残ったのは、ヒョウ1頭とホッキョクグマ1頭だった。
大阪天王寺動物園のヒョウは、人工哺育(ほいく)で育てられ、飼育員がおりに入っても一緒に遊ぶことができるほどなついていたという。
■「いつものようになでてやると、喜んでいました」
後に子ども向けに書かれた新聞記事には、ヒョウの飼育員の話が残されている。
「なかなかりこうなやつでした。毒入りの肉を3回食べさせたのですが、すぐ吐き出してしまいました。しかたなく、絞め殺すことになったんです。 私がロープを持ってオリに入りました。いつものように体をなでてやると、喜んでいました。私は心を鬼にしてロープを首にかけたんです」
別の記事によると、飼育員が首にロープをかけるときも、ヒョウはなついたようすでキョトンとしていたという。
飼育員の方は語る。
「オリの外でロープのはしを持っている人に合図すると、私はオリから飛び出しました。むごいことです。私は見たくなかったんです」
苦しかったのだろうか。
悔しかったのだろうか。
飼育員の方がおりに戻ると、ヒョウはすべての爪を立てて息絶えていたという。
そして、このヒョウは剝製として残された。
このヒョウの目は、いったい何を見つめているのだろう。
物資の不足している中で剝製を作り上げた人は、後世にいったい何を残したかったのだろう。
猛獣は、生き物を殺して食べるが、戦争はしない。
動物園の動物たちは愛されていた。
そして、動物を愛していた人が、動物を殺した。
それが戦争なのである。
前回:「最強」毒グモの母が迎える最期はどこまでも尊い(2月20日配信)
稲垣 栄洋 :静岡大学農学部教授
戦争と京都市動物園動物園のご紹介
京都市動物園には,どのくらいの動物がいるか知っていますか?
哺乳類・鳥類・爬虫類・両生類・魚類を合わせて,令和元年6月時点で,123種570点の動物が暮らしています。
京都市動物園は,日本では東京の上野動物園に次いで歴史のある動物園で,今から100年以上前の明治36年4月に開園しました。
開園当時の動物は,ウマやシカ,タンチョウや伝書鳩など,61種238点と,現在よりとても少ない収容数でしたが,その後動物園内で繁殖したり,外国の動物園から動物を買ったり譲り受けたりして,昭和15(1940)年には209種965点まで増えています。
しかし,その5年後,その数が72種274点と,急激に減っている時期があります。なぜでしょうか。
そう,その頃には戦争があって,たくさんの動物が死んでしまったからです。
戦時中の動物園といえば,猛獣処分を描いた絵本,「かわいそうなぞう」を読んだことがある方も多いでしょう。
寒さや飢えで死んでいく動物ももちろん多くいましたが,京都市動物園でも猛獣処分の事実がありました。
昭和14(1939)年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まり,ベルリンやロンドンの動物園の猛獣は,空襲を受けた時のために毒殺・銃殺されました。
そのニュースは日本にも流れ,京都市民も不安を持つようになりました。
動物園側は,そんな市民の不安を払しょくするために,「猛獣たちは鉄筋コンクリートの寝室に収容されているため,空襲で爆撃されても脱出の危険はなく,爆撃を受ければ逃げるより前に死んでしまうから,事前に処分する必要はない」と,熱心に説明しました。
「猛獣が逃げると危険だ」といううわさが広まる前に沈静化するよう,懸命に努力したのです。
昭和16(1941)年12月に,日本は太平洋戦争に突入しましたが,戦争が始まっても,京都市動物園は開園していて,昭和17(1942)年までは春季夜間開園も行われていました。
「日本は戦争に勝っているから大丈夫。」という感覚が市民の中にあったのかもしれません。
しかし,その翌年から日本各地で閉園する動物園が出始めました。
食糧不足も深刻になり,職員たちは動物の餌を確保するために動物園内の空き地で野菜をすでに栽培していましたが,新たに昭和18(1943)年9月からは京都市北区紫野大徳寺町の土地を借り,竹藪を開墾して畑づくりを始めました。
動物たちを餓死させまいと尽力する一方で,他の動物園の状況を見ながら対応を検討していた矢先の昭和19(1944)年3月12日,ついに軍より猛獣類を処分するよう命令が下ります。
その時園を訪れた第16師団の参謀長は,皮肉にも以前動物園に動物を寄贈した人でもありました。
せめて1日待ってほしいとの園側の懇願で,翌日から処分の作業が始められました。
3月13日にヒグマの親子。
3月15日にホッキョクグマなど3頭。
以後,ライオン,ツキノワグマ,トラ,ヒョウなど14頭を銃殺・絞殺・薬殺などで処分,最後に残ったメスのヒョウとオスのシマハイエナは香川県の栗林動物園に引き取られることになりました。
軍の処分命令は,「空爆でオリが破壊された場合に,猛獣類が脱出して人を襲うのを防ぐ」というのが表向きの理由でしたが,「親しんだ動物を処分しなければならないのは,敵国のせいだ」と思わせ,戦争に危機感のない国民の戦意高揚を図る狙いもあったのでしょう。
終戦後,生き残ったキリン1頭はその年の10月に,ラクダ3頭中1頭もそれに引き続き死亡し,インドゾウ1頭も年明けの1月に死亡しています。
猛獣処分の行われた年には,大々的に動物慰霊祭が行われました。
慰霊祭は,大正13(1924)年からほぼ毎年秋に行われていますが,この年の慰霊祭にはこれまでと違う意味合いも込められていたのかも知れません。
今では,歳を取ったり,病気やけがで死んでしまった動物たちに「命の大切さを教えてくれてありがとう」という気持ちを込めて,慰霊祭を行っています。
動物園は,動物を眺めて楽しんだり,動物の暮らす環境に思いをはせたり,動物をさわって命を実感したり,動物を通してヒトとはどんな生き物なのかを知ることができたりする場所です。
しかし,それは平和でないとできないことです。
戦前戦後の上野動物園長だった古賀忠道氏は,「ZOO IS THE PEACE」(動物園は平和そのものである)という言葉を残しています。
平和な世の中でなければ,動物園は成り立たず,人の愛は動物に及ばないということです。
戦争で犠牲になったのは,動物園の動物だけではありません。
ペットの犬や猫もその当時たくさん殺されました。
戦時中は,動物をかわいがったり大切にしたりするような,当たり前のことができなくなるのです。
身近な京都で,ほんの数十年前に起こったことを知って,それを忘れずに,動物と人がともに幸せに生きていける社会が続くようにしていかないといけないですね。
Kyoto City Zoo/京都市動物園
電話番号:075-771-0210
開園時間:3~11月 AM9:00~PM5:00 12~2月 AM9:00~PM4:30 入園は閉園の30分前まで
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌平日)/年末年始(12月28日~1月1日)
戦時下に犠牲の動物たち 大阪で悲劇伝える企画展 - YouTube
特別展「どうぶつのいのちとへいわ ~戦時下の天王寺動物園とこれからの未来~」 紹介動画 - YouTube
「ゾウのはな子」
「人間の優しさ」「命の重さ」「生きるものを愛する魂」を伝える真実の物語。
2007年夏にフジテレビで“千の風になって”ドラマスペシャル第2弾としてオンエアされ大好評だった『ゾウのはな子』
出演は反町隆史、北村一輝、甲本雅裕、純名りさ、窪塚俊介、堺 正章 ほか
[内容解説]
東京・井の頭公園にある小さな動物園に、一頭のゾウがひっそりと生きています。
そのゾウの名前は「はな子」。
はな子は今年で60歳。2歳の時にタイから日本にやってきて以来、ずっと日本を見てきた、戦後日本に初めて来たゾウです。
しかし、はな子の数奇で壮絶な運命の話をするには、もう一頭のゾウの話無くしては語れません。
そのゾウの名前は「花子」。戦渦において餓死させられた上野動物園のゾウです。
二頭のゾウ「花子」と「はな子」。
このゾウたちの運命、そこには日本人が歩んできた戦前、戦中、そして戦後の時代を背負った壮絶で感動的な物語がありま す。
戦中の上野動物園のゾウのお話は、長い間、小学校の教科書に「かわいそうなぞう」として掲載され、今の大人たちが親しんだ有名な実話です。
今回このドラマで、戦前の上野動物園のスター的存在だった「花子」に深い愛で向き合い、「花子」の死を選ばざるを得なかった悲しい体験に苦悩し、再起し ていく飼育員役を、反町隆史が演じます。
「花子」の死から2年後に終戦を迎え、再びタイから子象を迎え入れ、そのゾウの名も戦前の「花子」より平和な時代に生き、長生きしてほしいという願いを 込めて「はな子」と名付けられます。
反町隆史演じる飼育員から引き継ぎ、「はな子」に精一杯の愛情をもって接し、その後、幾重の試練を乗り越える戦後の飼 育員役に北村一輝。
そして、上野動物園園長役を堺正章が演じます。
「人間の優しさ」「命の重さ」「生きるものを愛する魂」など、このドラマは次世代の子どもにも伝えておかなければいけない物語です。