「子どもの責任でペットを飼う」「保護動物で情操教育」の危うさ
2019年5月21日(火) 現代ビジネス
写真:現代ビジネス
宇都宮動物園の裏門に、半年で20匹の子犬が置き去りにされたニュースが話題になった。
放棄した犯人はわかっていないが、悪徳ブリーダーか去勢避妊手術をせずにむやみに増やした多頭飼育崩壊の可能性は高い。
ペットブームの影で後を絶たない飼育放棄の現実。“殺処分ゼロ”という言葉がひとり歩きする中、全国での動物愛護センターに持ち込まれる動物は、犬猫合わせて10万648匹もいて、殺処分もまだ43,216匹もいる。
しかも、飼い主が飼育放棄し、センターに持ち込んだ件数は、犬猫合わせて、成犬成猫合わせて11,263匹、子犬子猫で3,998匹もいる(29年度「犬・猫の引取り及び負傷動物の収容状況」環境省)。
今回のような放棄や動物ボランティアへの持ち込みも加えれば、もっと多くの数になるに違いない。
「放棄される動物を減らすには、販売規制などの動物愛護法の法改正も必要です。でも、それと同時に、人と動物と暮らすための基本的な情報や、“命とは何か”を飼う側が学ぶことも必須だと感じています」というのは、動物保護シェルターを運営している特定非営利活動法人『ランコントレ・ミグノン』の友森玲子さんだ。
そんなことから友森さんは、数年前から子供たちを対象に、教育現場からのリクエストを受けて、『いのちの教室』を行っている。
大人たちが子供たちに命に対してどう伝えるべきなのか。
子供にペットが欲しいと言われたら大人はどんな心構えが必要なのか、友森さんに話を伺った。
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東京杉並の小学校で行われた「いのちの教室」の風景。photo/山内信也
◆動物の視点をまずいっしょに考えてみる
「今日はみなさんに保護動物のお話をしながら、一緒に命について考える授業をしようと思います。この中で動物を飼っている人はいますか?」
2011年から私が行っている『いのちの教室』はそんなふうに始まる。
子供たちがどの程度動物と関わった経験があるか聞き取りつつ、話を始めるのだ。
さらに、体感もしてもらう。
子供たちに、しゃがんでもらい犬や猫の目線になってもらう。
そして、しゃがんだ姿勢の子供の顔の近くに、立った姿勢で無造作に手を出してみる。
「犬や猫に触りたいって急に手を出すとこんな感じなの。こうやって目の前に手を出されどんな気持ちがすると思う?」と、子供たちに感想を聞く。
「急に手が出てきら怖いと思う」「ビックリして目をつぶっちゃう」「知らない人の手だったら触られたくないかも」とさまざまな感想を言ってくれる。
これは小中高校生を対象に依頼があった学校へボランティアで出張し、不定期に続けている活動のひとつだ。
子供たちの学年によって内容は異なるが、保護動物などの現状を伝え、命の大切さについて、子供たちといっしょに考える授業を展開している。
◆あえて動物を同伴しない『いのちの教室』
この『いのちの教室』では、動物は同伴しない。
父兄やときには学校の先生からも「子供たちを動物たちと“ふれあい”を体感させたいから保護犬猫を連れてきて欲しい」とリクエストが来る。
確かに“ふれあい”という言葉は、とてもいいイメージで用いられる。
動物について理解するために、“ふれあい”授業をして欲しい、と言われると、一見正しいように思えてしまう。
でも、動物の側から見たらどうだろうか。
人間よりも移動のストレスに弱い動物が事情も知らされずに車に乗せられ移動し、初めて会うたくさんの子供たちの視線にさらされる。
多くの人に注目されるだけでも、動物たちは心臓が爆発しそうなのに、全員が「触りたい!」となったら大変だ。
子供たちの中には楽しくなるとうれしくて声が大きくなってしまう子、動き回ってしまう子もいる。
動物は基本的に騒がしいのが苦手だし、たとえ優しく撫でられるにしても、不特定多数の知らない人間に囲まれて触られるだけで甚大なストレスを感じてしまうのだ。
例えば、高齢者との“ふれあい”活動では、勝手に高齢者を撫でたり、抱きついたり、大勢でジロジロと観察したりはしない。
一緒に何かを体験するなど対等に交流し、お互いを理解する、というのが“ふれあい”活動の基本だ。
それが、動物になると急に、大勢で撫でる、抱く、とむやみに触りまくるという展開になることに、違和感を覚えてしまうのだ。
◆動物の気持ちを知ることで芽生える思い
何もそんな偏屈な、子供は動物とふれあいたいんだから、触らせればいいだろうが、と思う方もいるだろう。
でも、それでは「動物を正しく知る」ということにはならない。
人間が望むこと=動物も望んでいることとは限らない、ということを伝えることが大切だ。
「今日は犬や猫といった動物はいっしょに来ていません。残念に思った人も多いかもしれませんね。その理由をみんなと考えてみたいと思います。まず、みなさんに質問をします。みんなは、初めての場所で大勢の人の前に出るとしたら、どんな気持ちになるかな?」と子供たちに質問を投げかけてみる。
「ドキドキしちゃって動けなくなっちゃう」
「緊張してみんなの顔が見れないかも」
「恥ずかしくてしゃべれない」と正直な気持ちを教えてくれる。
「感想ありがとう。緊張しちゃうって人が多かったね。これは動物も同じなんだよ。人間よりも体が小さいからもっと緊張しちゃうし、怖くてドキドキしちゃうんだ」と説明すると、みんな「そうか、同じなんだね」と今回の授業に動物が参加しない理由もすぐに理解してくれるのだ。
触わってはダメ、騒がないで! ではなく、その理由をきちんと伝えることで、動物の視点を持ってくれる。
ふれあわなくても、動物たちの気持ちを子供たちは知ることはできるのだ。
◆大人の押し付けでなく、子供の発想で動物を考える
『いのちの教室』は、子供たちの年齢によって、テーマを変えている。
低学年向けの授業では、理解しやすいように、たくさんの写真を用意して、保護動物のさまざまなストーリーを話している。
保護動物は、ペットショップの動物と違って様々な状態でシェルターにやってくる。
片目を失っていたり、皮膚が悪くて禿げていたりする子たちも少なくない。
いのちの教室を始めた当初は、見た目に衝撃を受ける可能性がある写真を使用するかどうか担任の先生と協議をした。
しかし多くの学校では、「それが保護動物の現実だし、人間だってさまざまな人が存在している。差別をしてほしくないので使用してください」というところがほとんどだった。
しかも、実際にそういった動物の画像を使うと、子供たちは大人よりも素早く動物たちの魅力や私たちができることを見つけてくれるのだ。
例えば、目が見えない犬の写真を見せると「目が見えなかったらゆっくりお散歩に行けばいいんじゃない」、両眼摘出の全盲の猫は「いつも笑っているみたいな顔でとってもかわいい!」、背中が剥げている老犬には「毛が生えてなかったらお洋服を買うといいかも!」と素敵な意見を次々出してくれた。
殺処分を減らすにはどうしたらいいか、というちょっと難しい質問をしても、みんな周りと意見を交わしながら「ペットショップじゃなくて保護動物を選ぼうと思う」「ちゃんと飼えるかきちんと考えてから飼う」といった大人にも聞いて欲しい意見もたくさん出てくるのだ。
こういった経験から、無理に動物を連れて行き“ふれあい”をするよりも、いっしょに考えることで、動物対して適切な距離感や接し方を伝えることはできると感じる。
家庭の場合は、絵本を使うのもお勧めだ。
保護動物のことを扱ったお話や動物の死や命を考えるテーマの作品も数多くある。
大人が一方的に「かわいそう」「ひどいよね」というのではなく、子供がどう感じたか、殺処分を減らすために自分たちができることは何かを家庭ごとに考えてみるのもいいと思う。
友森さんのシェルターにいるポロリとコロリ。両眼摘出をしたが、健常猫と同様に遊び、みんなの人気者だ。photo/山内信也
◆「子供のために」でペットを飼うべきか!?
私が運営している動物愛護団体では、月に2回保護動物の譲渡会を開いている。
保護動物を迎えてくれるのは、とてもありがたい。
が、少しだけ気になることがある。
家族で譲渡会に来ている方の中に、子供にすべての決断権を委ねている人がいるのだ。
「あなたがよく考えて決めなさい」「あなたが面倒をみるのだから」「ママは面倒みないから」と――。
子供にも責任感を、と考えてのことなのだろう。
しかし、保護動物のマッチングは思っているよりも難しい。
犬や猫の性質や健康状態の把握など細かい部分が飼い主となる人との相性に影響してくるからだ。
経験豊富な保護団体と、飼育経験や飼育環境などを相談しつつ、決めるのが理想的だ。
そこには、経済的な条件も必要になってくる。
責任感や情緒を養うという名目で、動物を飼う飼わないを子供に選択させてしまうのは、動物のためだけでなく、子供に対してもつらいトラウマとなってしまう危険性もある。
以前こんなケースがあった。
犬を飼育放棄したい、と相談に来た人の話を聞いたら中学生の娘さんと親子3人暮らしだった。
犬のしつけが上手くいかず、母親が「犬がうるさい!」とノイローゼになり飼育困難に。
母親は、「あなたが飼いたいって言ったのに! こんなことになってどうするの!」と中学生の娘を私の目の前で終始叱りつけていた。
そもそも未成年の中学生に選択させ、飼育責任を背負わせてしまうことが問題だ。
その中学生には、「私が飼育放棄した」という重荷だけが残ってしまうことになる。
動物を飼うということは、終生命を預かるということだ。
子供といっしょに家族で飼育できるか、家族でどう飼育するかを考えることが必須だ。
また、たとえ子供がきちんと面倒をみていたとしても、進学や就職、結婚で独り立ちする際に、ペットと離れるケースは少なくない。
そのとき親が、「あなたがほしいと言ったのだから、私たちは面倒みませんよ」というわけにはいかないだろう。
◆子供たちは大人の真似をする
また、譲渡会でよく聞くのが「子供の情操教育のために保護動物を飼おうと思ったんです」というフレーズだ。この言葉を聞くと、私は頭の中で黄色信号が点ってしまう。
過酷な状況から保護して、申し込みが入るまでの短くない期間、健康に気を配り、譲渡されるときには“今度は幸せになれよ”と嫁に出す父親の気分でいるところへ、“情操教育のためにうちの保護動物を役立てる”? 、これは一体どうことなのだろう?
もちろん、保護動物を迎えるにあたって、その家族の思いや選択は自由だ。
実際に動物と暮らすことで、愛情や社会性、死生観など学びは限りなくある。
しかし、あまりに意気揚々と「情操教育のために」と言われてしまうと、保護動物の命よりも子供の教育が優先されているのか……と感じる。
大人でも勉強しないと難しい動物の世話を、社会経験や判断力の乏しい子供にさせることの無責任さと、教育係としてその命を提供する動物に対する思いやりのなさに引っかかってしまうのだ。
「情操教育」同様によく使われる「癒しのため」という言葉にも、動物と共存するというよりも人間視点な発想で、やはり黄色信号が点ってしまう。
『いのちの教室』を通して感じたのは、子供たちは大人をとても観察しているということ。
大人や親の考え方や振る舞いを真似しながら学んでいる。
本当に動物で情操教育を行いたいなら、大人たちが心から動物を敬い慈しみ、理解に努め彼らについて学び、労力を惜しまず世話をする姿を見せることだ。
その姿から子供もいっしょに優しくケアすることを学んでいくのだと思う。
大人がどう動物と接するかを子供は見て、動物との接し方を学ぶ。そのことを忘れずにいたいものだ。撮影/山内信也
◆小学6年で出会った獣医の「姿」
私自身、小学6年生のときに出会った獣医の姿が忘れられず、動物を助ける仕事を選ぶことになった。
当時、園芸飼育委員会の委員長で、うさぎの世話にのめり込んでいた。
しかしある日うさぎが猫に襲われてしまった。
担当教諭が獣医に連絡をして、私が瀕死のうさぎを動物病院に連れて行くことになった。
うさぎを抱えて早足で向かう途中で、うさぎが痙攣を起こし、失禁をした。
道路に落ちるオシッコを見て、生き物が死ぬ瞬間を初めて体感した。
そのまま病院に向かい「死んでしまいました」というと獣医は私の腕からうさぎを奪うようにして、人工呼吸と心肺蘇生を始めた。
何度も何度も心肺蘇生を繰り返したが、うさぎは結局助からなかった。
しかし、こんなに小さな、自分の家族でもない動物の命を一生懸命救おうとする大人がいるんだ、ということは12歳の胸にもしっかりと刻まれた。
「私も動物を助ける大人になりたい」と感じる程に。
だから、懸命で真摯な大人の姿は、どんな教材よりも子供の心を動かすと私は信じている。
GW明けから連日、高齢者から飼えなくなった動物を引き取って欲しいと連絡が絶えない。
「そういったことは身内で、お子さんにお願いしてください」と言っても、子ども側も「母親が勝手に飼っていたのでいらないです」というパターンばかりだ。
放棄される動物たちの境遇を見ていると、動物への考え方は親子で似ていることは少なくない。
動物を放棄する親の家族は、動物に対して愛情が少ないケースが多い。
こういった負の連鎖を断ち切るためにも、私たち大人がまず動物飼育、命とは何かを見直す時期が来ているのかもしれない。
友森 玲子