69歳、はな子逝く
1949年来日 子ども、お年寄りに愛され 東京・井の頭自然文化園
2016年5月27日 毎日新聞
水浴びが大好きだった国内最高齢のアジアゾウのはな子
=東京都の井の頭自然文化園で、2011年9月15日、斉藤三奈子撮影
1949年9月、東京にやってきたはな子
東京都は26日、井の頭自然文化園(東京都武蔵野市)で飼育されていた国内最高齢の雌のアジアゾウ、はな子(69歳)が死んだと発表した。
老衰とみられ、27日にも解剖して詳しい死因を調べる。
1949年に日本に贈られ、戦後長く親しまれたはな子の死を、多くの人が惜しんだ。
【川畑さおり、斉藤三奈子】
同園によると26日午前8時半ごろ、飼育員がゾウ舎内ではな子が横たわっているのを見つけた。
内臓が体重で圧迫されないように体にロープを巻いて引っ張り、立たせようとしたが、立ち上がることができないまま午後3時過ぎ、死んだことが確認された。
最期は1度大きく呼吸して、苦しむことなく息を引き取ったという。
はな子は47年春ごろタイで生まれ、2歳だった49年9月、タイの実業家、ソムアン・サラサス氏(故人)が「戦争で傷ついた子どもたちの心をいやそう」と私財を投じて日本に贈った。
戦争中、逃走のリスクから餓死させられた上野動物園のゾウ「花子」にちなみ「はな子」と名付けられて上野動物園で大人気となり、54年に井の頭自然文化園に移った後も変わらず人気者だった。
56年にはゾウ舎に酔って侵入した男性を、60年には飼育員の男性を踏んで死亡させ、鎖につながれた時期もあった。
永井清園長はそのころを「人間不信に陥ったように見えたこともあったようだ」と振り返った。
神経質な性格にあわせてえさを工夫するなど園の配慮もあって、2013年には66歳になりアジアゾウの国内最高齢記録を更新した。
永井園長は「晩年は子どもだけでなく自分の人生と重ね合わせたお年寄りにも愛されていた」と語った。
同園は27日に献花台を設置する。
ソムアン氏の長男で、神奈川県鎌倉市に住むウクリッド・サラサスさん(73)は「これまでよく頑張った。日本とタイの友好の懸け橋になり、ありがとうと言いたい」と話した。
https://www.youtube.com/watch?v=6E6_0YoBwt4
「はな子、ありがとう」作者の志茂田景樹氏も悲しみ
2016年5月26日 日刊スポーツ
ゾウの「はな子」(写真は2012年2月)
戦後に来日して人気を集めた雌のアジアゾウ「はな子」が26日、死んだ。
芸能界からも悲しみの声があがっている。
ロックバンドHi-STANDARDのギター&ボーカル横山健はツイッターで「井の頭動物公園は自分が生まれ育った場所から近く、小さい頃から身近な存在だった。『はな子』安らかに」と悼んだ。
作家の志茂田景樹氏は「小4のとき1人で上野動物園にはな子に会いにいった。日の丸の小旗を鼻で巻いてチンチンをして歓声を浴びていた。僕は元気をもらった。以来、20数回、はな子に会いに。今年の正月3日会いにいったのが別れになった。それ以前に僕は絵本『はな子、ありがとう』を描いた」と偲び、「はな子、安らかにね!」と呼びかけるようにつづった。
ミュージシャンのパラダイス山元は「パラダイス山元と東京ラテンムードデラックス フューチャリング ビシバシステムのPVにも出演して頂きました。人が近づくと、いつも鼻を左右へ振ってくれていました」と共演した過去を振り返り、「心より合掌」と悼んだ。
タレントのぱいぱいでか美は「はな子お疲れ様でした。もっと会いに行けばよかったなーと思ってしまう~ショックだ」と残念がった。
はな子は49年に上野動物園(台東区)に贈られ、54年から井の頭自然文化園で飼育されていた。
国内最高齢の69歳だった。
千の風になってドラマスペシャル「ゾウのはな子」
2007年8月4日の21:00~23:10に、フジテレビ系列『土曜プレミアム』枠内にて放映された、『千の風になって ドラマスペシャル』シリーズの第2弾スペシャルテレビドラマである。
昭和16年、太平洋戦争が始まった。
昭和18年、夏。
上野恩賜動物園・象担当の飼育員である吉岡亮平(反町隆史)は、人間でさえ食べるものに困っているなか、空腹に耐えられない動物たちのために生ゴミを漁っては、仲間の飼育員に分けてやっていた。
戦争中でもお客がいる限り、動物園は開いていた。
なかでもジョン、トンキー、花子の三頭の象は一番の人気者だった。
象舎の前には、いつものように和夫(大嶋捷稔)の姿があった。
和夫は象が大好きな小学生の男の子。
亮平と象の話をし、時には亮平の手伝いもする。
和夫には象と同じ花子という名の妹がいた。
しかしその妹は身体が弱く、まだ本物の象を見たことがなかった。
そんな時、園長の西村(堺正章)が飼育員全員を集めた。
一ヵ月後の8月31日までに猛獣を処分せよ、との通達が都から下ったのだ。
亮平をはじめ、飼育員たちは、地方の動物園への疎開など、なんとか動物たちを守ろうと考えるが、都の命令には逆らえず、ついに動物たちの毒殺が始まった・・・。
次々と毒殺を余儀なくされ、動物たちの看板が白く塗りつぶされていく・・・。
いよいよ象の番になった。
しかし、賢い象は、毒の入った食べ物を決して口にしない。
もう象以外、ほとんどの猛獣は処分されていた。
注射針も象の皮膚には通らず、餓死させるという最も残酷な方法しかなかった。
象たちは亮平に芸当を見せてはご褒美の餌をねだった。
何もすることができずに苦しむ亮平。
日に日に痩せていく象。
「どしーん」という音とともに、まずはジョンが倒れた。
弱ると、一度倒れた象はもう自力では起き上がれない。
残った花子とトンキーは、どちらかが倒れないように身体を寄せ合い、立ち続けたという。
しかし、トンキーに続いて、昭和18年9月11日、とうとう花子は餓死した。
戦争が終わり、動物園も再開された頃、新聞社に10円が同封された一通の手紙が届く。
「ぼくのいもうとはぞうをしりません。この10円でぞうをかってください」という少年からの投書が新聞に掲載され、日本中の子どもたちの夢がふくらんだ。
その夢がかない、タイから1頭の子象が贈られることに。
その象の担当を命ぜられた吉岡は、「自分は象を殺した人間だ」と苦しみつつも、子どもたちの夢をかなえるべく再び立ち上がる。
そしてその子象に名付けられた名は「はな子」。
餓死せざるを得なかった花子より平和な時代に長生きしてほしい、という願いが込められていた。
吉岡は、新しい飼育員・高野敬介(北村一輝)と一緒に最大限の愛情ではな子を飼育し、芸を覚えさせる。はな子は一躍上野動物園のスターになった。
昭和29年、はな子は武蔵野市の井の頭自然文化園に移されることになる。
吉岡はこれがはな子との別れになった。
井の頭ではひとりぼっちのはな子。
群れをなす象にとって一人になるのは最大の苦痛で、この頃からはな子の運命の歯車が狂い出す・・・。
井の頭に来て2年、事件は起きた。
深夜酔った男が象舎に侵入し、檻の中で死亡しているのが発見されたのだ。
その数年後には、飼育員を踏みつけて殺してしまうという悲劇が再び起こる。
芸達者で人気者だった象は、これを境に「人殺しの象」というレッテルを貼られてしまう。
以来、はな子は狭くて暗い象舎に足を鎖でつながれ、人前に出ることはなくなってしまった。
そこにやって来た新しい飼育員は高野敬介だった。
はな子とは上野から去って以来の再会。
げっそり痩せて、完全に人間に対して心を閉ざしてしまったはな子の鎖をほどき、心の交流を図ろうとする高野。
しかし、やっと檻から出してもらったはな子に客の冷たい罵声と投石が・・・。
ますます傷つき、人間不信になるはな子を救うことだけに没頭し、高野は家庭も顧みなくなる。
泊まり込みで世話をし、餌を直接口に運んでやり、ひたすら話しかける。
そんな日々が何年も続いた。
ストレスにより歯が抜け落ちてしまったはな子に、1日100キロもの餌をすべてすりつぶし、団子にして与えるようにした。
長い歳月を経て、少しずつ人間に心を開くようになり、再び動物園の人気者になったはな子。
この頃から、高野の息子・洋介はこっそり動物園で働く父の姿を見に来るようになっていた。
その後、高野は定年を迎えた。
以前、吉岡がそうしたように、普段どおりに最後の日を終える高野。
平成9年、はな子を連れて子どもたちの前に出てくる飼育員、それは洋介(窪塚俊介)だった。
洋介は、父の意志を受け継ぐように、はな子の飼育員としての人生を選んだのだ。
平成16年、はな子来園50周年の式典が行われ、全国から1万5千通もの温かいメッセージが寄せられた。戦後の日本を見つめ続けてきたはな子・・・。