なぜ、助けたのに殺すのか…
東日本大震災で「殺処分」になった被災犬たちの「その後」
2023年3月22日(水)
◆殺処分の犬を保護するブルースシンガー
東日本大震災などの被災地で飼い主を失った犬や、捨て犬の末路をご存じだろうか。
引き取り手が見つからなければ、悲しい結末を迎えることもある。
そんな殺処分寸前の犬を救出し、被災地で人々を励ましたり、お年寄りなどの治療を助けるセラピードッグを育てているのが、ブルースシンガーの大木トオルさんだ。
大木トオルさんと、救出されてセラピードッグになった犬たち
今、大木さんが育てた犬にスポットをあてた『命をつなぐセラピードッグ物語』が、注目を集めている。
捨て犬や東日本大震災で置き去りにされた犬たちが、殺処分寸前から保護され、健康を取り戻してりりしく働く犬として活躍する物語である。
大木さんはアメリカでミスターイエローブルースと呼ばれ、数々の名演奏家たちとともに活躍しながら犬たちと関わり続けてきた。
しかし、大木さんの生きざまは苦難の多い七転び八起きの逆転人生だったという。
『命をつなぐセラピードッグ物語』を紐解きつつ、犬たちと生きながら逆風の人生をどう乗り越えてきたのか、大木トオルさんに話を伺った。
◆東日本大震災に遭った「被災犬」を救出
2011年3月11日、東日本大震災が発生した。
宮城県の三陸沖を震源とする地震によって関東までもが大きく揺れ、いたるところで大きな被害が生じた。
その後、巨大な津波が押し寄せ街や生き物を海に吞み込み、太平洋沿岸は壊滅的な被害を受けた。
翌12日には福島第一原子力発電所が大爆発を起こし、放射性物質が大量に放出される事態となったのである。
家が崩壊したり流された人々は高台にある避難所に逃れ、避難生活を余儀なくされた。
さらに、福島第一原子力発電所から半径20キロメートル圏内が高濃度の放射性物質汚染の警戒区域に設定され、その中に住む人々が避難しなければならなくなった。
人間ばかりではない。
警戒区域には家畜やペットもいる。
動物たちはどうなったのか。
「福島は、動物たちにとってとても過酷な状況となっていました。人々が避難するときに、ペットや家畜は置き去りにされたのです。その動物たちのうち、生き残ったものが放浪していました。 行政が働いて犬を保護しましたが、収容しきれなかった犬たちは保健所に回され、殺処分されるというのです。それを聞いた私は、殺処分される犬たちを助けようと現地に向かいました」
◆「なぜ、助けたのに殺すのか」
福島県川内村の警戒区域内で、放射線防護服を着て保護活動を行う大木さん(『命をつなぐセラピードッグ物語』より)
2013年6月に環境省自然環境局が発行した「東日本大震災における被災動物対応記録集」によると、福島県における東日本大震災前の犬の登録数は約11万6000頭で、そのうち災害と津波によって命を失ったのは約2500頭と推測されている。
また、放浪したりケガをした状態で行政に保護された犬は約630頭(2012年9月30日時点)であり、飼い主と一緒に避難した犬は1470頭と推測されるとしている。
何万頭もの犬たちが、警戒区域内に取り残されたり、飼い主とはぐれて放浪していたのだ。
福島県では、被災して放浪状態のところを保護されり、飼い主が被災して飼育が難しくなってあずけられたペットたちを一時的に収容する「動物救護施設」を設けて保護した。
「シェルター」ともいわれる。
しかし、いわき市などでは捕獲数が増えすぎたために「動物救護施設」に入りきれず、保健所や収容所に回されるようになった。
ところが、じきにそこも収容しきれなくなり、殺処分することになったのだ。
「なぜ、助けたのに殺すのか。被災地の犬たちは、災害で家族と離ればなれになった『被災犬』です。殺してはならない。私はそう保健所で訴え、殺処分が決まった最初の4匹を引き取って連れて帰ることにしたのです」
大木さんは保健所と話し合い、のちに「幸(さち)」「福」「日の丸」「きずな」と名づける4匹を引き取り、国際セラピードッグ協会のトレーニングプラザに連れて帰った。
「福」は狭いケージの中に何ヵ月も閉じ込められていたために、骨格がゆがんで立ち上がることもできなかったという。
犬たちは被曝していたため、繰り返しシャンプーすることで除染し、放射線チェックをしたのちに連れて帰った。
こののち大木さんは何頭もの犬を救うことになるが、そのたびに、除染作業を福島第一原子力発電所の作業員たちが懸命に協力してくれた。
殺処分など、誰もしたくてしているのではないのだ。
トレーニングプラザに到着した4匹は、弱った体を整えてから、セラピードッグになるための訓練を受けるようになった。
やがて、福島県の被災地の避難所へ里帰り訪問するようになる。
自分たちと同じような災害に遭った犬たちがトレーニングを積んで慰問に来たことを知り、被災者の中には失った愛犬を思い出して涙を流す人もいたという。
「日の丸は、復興のスローガン『がんばろう! 日本』にちなんで名づけました。のちに立派なセラピードッグとなって被災地で避難所を訪問をしたとき、海を見て震え上がって逃げ出したのです。いつまでも忘れられないほど恐ろしい思いをしたのでしょう」
のちのことになるが、2015年12月に被災犬を収容していた「いわき市ペット保護センター」が閉鎖されることになり、国際セラピードッグ協会が収容されている犬ごと運営を引き継ぐこととなった。
新しい施設は「福島・いわき被災犬緊急保護センター」として、6年間運営を続けた。
2019年には、協会が救助した被災犬は62頭に上り、そのうち30頭がセラピードッグとなって活躍している。
40年にわたり、捨て犬を保護してセラピードックに育てる活動を続ける大木さん。
どの犬も保健所や動物愛護センターで殺処分される寸前だった犬ばかりだ。
なぜこのような活動を続けているのか。
その経緯は【後編】に続く。
<プロフィール>
大木 トオル(おおき・とおる)
音楽家、(一財)国際セラピードッグ協会創始者。弘前学院大学客員教授、社会福祉学者(日米)。東京・人形町生まれ。東洋人のブルースシンガーとしてアメリカで活躍しつつ、動物愛好家として日米の友好・親善に尽くす。また、ライフワークとして殺処分寸前の捨て犬や災害にあった被災犬たちを救助してセラピードッグに育て、高齢者施設や障がい者施設、病院、教育の現場などで多くの人々の心を支える活動をしている。著書に『動物介在療法 セラピードッグの世界』(日本経済新聞出版社)、『わがこころの犬たち ─セラピードッグを目指す被災犬たち』(三一書房)、『犬とブルース』(鳥影社)、『命をつなぐセラピードッグ物語』(講談社)、ほか多数。
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<聞き手>
高木 香織(たかぎ・かおり)
出版社勤務を経て編集・文筆業。皇室や王室の本を多く手掛ける。書籍の編集・編集協力に、『愛のダイアナ』(講談社)、『美智子さま マナーとお言葉の流儀』『美智子さまから真子さま佳子さまへ プリンセスの育て方』(ともにこう書房)、『美智子さまに学ぶエレガンス』(学研プラス)、『美智子さま あの日あのとき』カレンダー『永遠に伝えたい美智子さまのお心』『ローマ法王の言葉』(すべて講談社)『ちょっとケニアに行ってくる アフリカに無国籍レストランをつくった男』(彩流社)など。著書に『後期高齢者医療がよくわかる』(共著/リヨン社)、『ママが守る! 家庭の新型インフルエンザ対策』(講談社)。
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高木 香織(編集・文筆業)
日本の「犬の殺処分」実はこう見られている…「
捨て犬保護」に奔走するブルースシンガーが米国で言われた、壮絶な一言
2023年3月22日(水)
飼い主を失った犬や、捨て犬は、引き取り手が見つからなければ、殺処分という悲しい末路を迎えることもある。
そんな殺処分寸前の犬を救出し、人々を励ましたり、お年寄りなどの治療を助けるセラピードッグを育てているのが、ブルースシンガーであり、『命をつなぐセラピードッグ物語』の著者の大木トオルさんだ。
大木トオルさん
東日本大震災発生後に被災し殺処分寸前だった犬たちを「なぜ、助けたのに殺すのか。
被災地の犬たちは、災害で家族と離ればなれになった『被災犬』です。
「殺してはならない」と、まずは4匹保護した大木さん。
それがきっかけとなり、こののち大木さんは東日本大震災で被災した何頭もの犬たちを救うことになる。
これまで長きにわたり、捨て犬をセラビードックに育て上げる大木さんは、一体なにがこの活動の原動力となっているのか。
その詳細を聞いた。
『命をつなぐセラピードッグ物語』
著者:大木トオル
出版社:講談社
発行日: 2023年03月22日
価格: ¥1,650(本体¥1,500)
ページ数:208P
小学上級・中学から
出版社からの内容紹介
捨て犬から、日本初のセラピードッグになった「チロリ」。
福島で救出された被災犬「幸」と「福」。
野犬として捕らえられた「ゆきのすけ」……。
殺処分寸前だったこれらの犬たちは救出されたのち、セラピードッグとしての訓練をつんで、医療・福祉の現場で活躍するようになりました。
どんな生まれでも苦しいことがあっても、環境が変わって教育を受けることで、よい生き方ができるようになる。
この本に出てくる犬たちのたくましい姿は、命さえあれば生まれ変わることができるということを、わたしたちに教えてくれます。
◆言葉が出るまで待っていてくれた愛犬メリー
大木さんは40年以上にわたって、捨て犬を保護してセラピードッグに育てる活動を続けている。
現在も国際セラピードッグ協会のトレーニングプラザでは、数十頭の犬たちがセラピードッグになるための訓練を受けている。
どの犬も保健所や動物愛護センターで殺処分される寸前だった犬ばかりだ。
なぜこのような活動を続けているのか。
「私は子どものころ、ひどい吃音だったのです。学校で友だちや先生から笑われたりいじめられました。誰も私がつっかえながら話し始めるのを待ってはくれませんでした。でも家に帰ってくると、愛犬のメリーが待っていてくれた」
「メリーは私が言葉を出せるまで、じっと待っていてくれたんです。そして、ようやく『メリー、ただいま』というと、嬉しそうに私の顔を舐めてくれる。私はメリーといつも一緒にいました」
吃音は大木少年にとって、生きるのにつらい障害だった。
ところが、大木さんが12歳のとき、メリーとの幸せな日々は突然終わる。
家業の工務店が倒産し、一家が離散したのだ。
大木さんもカバンひとつで親戚の家に預けられてしまう。
「メリーはよそにやられたと聞きました。きっと捨てられたのでしょう。今、私が捨て犬を救う活動をしているのは、子どものころに助けてくれたメリーの恩を、一生をかけて返したいと願っているからなのです」
もうひとり、いつも孤独な大木少年を気づかってくれたのが祖父だった。
祖父は、当時は珍しかったステレオを買ってくれた。
ステレオから流れてくる素晴らしい音楽は、将来ブルース歌手を目指すきっかけとなった。
のちのことになるが、歌を歌っているうちに吃音が治っていった。
言葉にメロディーがつくと肩の力が抜けて、ごく自然に声を出せるようになったのだ。
◆ブルース歌手の夢が結核療養で断たれる
ブルース歌手になるという夢を持った大木さんは、高校生のころには夜になると渋谷や六本木のクラブで歌い、生活費を稼ぐようになった。
ときは1960年代の高度経済成長期まっただ中である。
さまざまな音楽が日本人の心を潤していた。
ブルースは、アメリカで黒人たちがつらいことを乗り越えようと自分たちのために歌った応援歌である。
ブルースの成り立ちが大木さんの人生に重なったこともあり、その魅力に取りつかれていった。
やがてプロの歌手となって10年ほどたったころ、大木さんは胸苦しさを覚えて病院を受診した。
肺結核に罹っていたのだ。
歌うことを禁止され、長期の入院生活に(Photo by iStock)
医師から歌うことを禁止され、長期の入院生活を余儀なくされてしまう。
結核は感染病であり、当時は完治までに長い期間を要した。
ブルース歌手という夢は断たれ、出歩くことも禁止された。
若い大木さんにとって闘病生活はやるせなく絶望に打ちひしがれた日々だった。
「ある日のこと、私は病室で一人静かに横たわっていました。隣の病室の人は、孤独に耐えられなくなるのか、夜になるといつも私の部屋の壁をノックしてくるのです。私もそれにノックを返し、小さな交流が生まれていました。 ところが、その晩はノックの音がしないのです。しんとした空気の中で耳を澄ますと、隣の病室が静まり返っているのが気になりました」
「翌朝廊下に出て見ると、隣の病室はからっぽで、看護師が部屋を片付けて真新しいシーツをベッドにかけているのです。毎晩、壁をノックしてきた人はもうこの世にいないのだ、と愕然としました。 次は自分の番かもしれない。そう考えたとき、悔しさが湧き起こってきました。そして、『これでいいのか、もう一度ブルースを歌ってやる』と決意したんです」
退院するためには、結核を治さなければならない。
2年半の努力が実を結び、大木さんは病気を克服して退院することができた。
当時にしては珍しいケースだったという。
退院した大木さんは、楽器を売ったわずかばかりのお金を持って、ブルースの本場アメリカに旅立った。
◆アメリカでセラピードッグと出会う
アメリカにわたったがゆくあてがなかった大木さんは、東京で知り合ったロサンゼルスの黒人の家に転がり込んだ。
しかし、すぐに現実の厳しさを思い知らされる。
本場のブルースは、けた違いに迫力があったのだ。
NYで音楽活動をしていた頃。中央の白いジャケット姿が大木さん
圧倒的な声量と深い情感で歌われるブルースは、人の心を揺さぶり、魂に訴えかけてくる。
日本人の自分には、とうてい太刀打ちできない。
日本に帰ろう。
「やっかいになっている家の黒人のビッグママに弱音を吐いたんです。するとビッグママは私の目を見つめてこう言いました。『あなたはイエローだ。この国でたくさんの差別や偏見にさらされるだろう。その苦しいこと、つらいこと、悔しいこと、うれしいことをすべて魂を込めて歌いなさい。それがブルースなんだよ』と」
その言葉に目が覚めた大木さんは、アメリカで一からやり直す決心をした。
その後、活動の場をニューヨークへ移す。
じょじょにブルース歌手として人気が出始め、「ミスターイエローブルース」と呼ばれるようになっていく。
ブルース・ギタリストのアルバート・キングや「スタンド・バイ・ミー」の大ヒットで知られるソウル歌手のベン・E・キングなどと共演した。
自分のバンドを組んでリーダーとして各地で公演を行った。
ある日、立ち寄った高齢者施設で、グリーンベストを着て活動する犬たちを見かけた。
それはセラピードッグの活動風景だった。
◆「日本には犬のアウシュビッツがある」
それは運命の出会いであった。
大木さんは吸い込まれるように高齢者施設に入って、犬たちの活動を見学した。
そして、犬たちがお年寄りや体の不自由な人たちと一緒に過ごし、笑顔を取り戻させている光景を目の当たりにして心を動かされる。
犬たちは生き生きと働いていた。
「ニューヨークの街で犬が歩いているのを見るたびに、愛犬のメリーを思い出していました。吃音で引きこもりがちだった私を励ましてくれたメリー。それなのに、助けてやれなかったことが悔やまれていました」
アメリカのセラピードッグ活動の様子(『命をつなぐセラピードッグ物語』より)
「施設でセラピードッグが病気や認知症のお年寄りのリハビリを手伝っている姿が、メリーの姿に重なって見えたのです。犬っていいなぁ。メリーのためにも、これからはライフワークとして犬に関わって生きていこう、と心に決めました」
それからというもの、時間を見つけては施設を見学し、セラピードッグを自分の手で育成するようになった。
そして、自分が育てた犬を連れて施設を訪問するまでになったのである。
ところが、大木さんを打ちのめす出来事が起こる。
「ある動物愛護の会を訪問したときのこと、参加者の一人が私にこう言うのです。『あなたは日本人ですね。私たちは日本人を認めない。なぜなら、あなたの国には、犬や猫のアウシュビッツがあるからだ。あなたはブルースを歌って影響力があるのに、なぜ自分の国に帰ってそれを変えようとしないのか』と。殺処分のことはうすうす知っていましたが、面と向かって言われて衝撃を受けました」
1979年当時の日本での犬の殺処分数は、97万5000頭もの数に上っていた(環境省自然環境局の発表による)。
それから大木さんは、帰国するたびに犬を殺処分する係留施設を訪ねて歩くようになる。
施設の中は見せてもらえないが、塀の外から犬たちの鳴き声が聞こえてくる。
胸が痛んだ。
やがて大木さんは殺処分寸前の犬を引き取っては里親を探すようになった。
まったく個人的な活動である。
それがのちに国際セラピードッグ協会を設立し、トレーニングプラザでセラピードッグを育てる活動に発展していくこととなる。
◆命あるものは幸せになる権利がある
保健所や動物愛護センターには、5つほどの部屋があり、犬たちは日ごとに隣の部屋に移されていく。
その間に、迷子の愛犬を探しに来た飼い主や里親に引き取られれば外に出られる。
その機会がない場合は、5つ目の部屋からガス室へと送られる。
「最後の部屋から数頭の犬を救って扉から出るとき、後ろを振り向くと、残された犬たちが私を見つめています。自分たちは選ばれなかった、と悟った目で……。私にもっと力があったらすべての犬を救えるのに、と思わずにはいられません」
やがて大木さんの活動にふれた動物愛護センターから講演の依頼が来るようになり、職員たちに理解者が増えていった。
動物愛護団体やボランティアたちとも協力することで、捨て犬を減らし、施設から出る犬を増やす活動が広まっていった。
動物愛護管理法(「動物の愛護及び管理に関する法律」)の改正にも働きかけたことで、動物愛護センターへの犬の持ち込みも減少した。
これらの働きが功を奏し、2004年度には15万5870頭だった犬の殺処分数は、2020年度には4059頭にまで減少した(環境省自然環境局の発表による)。
「それでもまだ殺処分は行われています。どんな犬も、人の役に立つような犬に変われます。命あるものは幸せになる権利があるのです。私は全国の殺処分数がゼロになることを目指しています」