『ウクライナの人たちが、ペットを抱きしめながら逃げる悲痛な写真』
あなたにも彼らを助ける方法があります
2022年2月26日(土) the dodo
抜粋〜
最近の報告によると、ポーランド、ルーマニア、スロバキアは、ウクライナ人が獣医の事務処理なしで国境を越えてペットを連れてくることを許可しています。
しかし、ウクライナにはまだ食糧、薬、世話を必要としている動物がたくさんいます。
英雄的なボランティアと避難所の労働者は、これらのホームレスの動物の世話をするためにミサイルの攻撃に直面しています。
危機の時に無力を感じないようにするのは難しいですが、ウクライナのペットとその家族、そして他に行くところのない避難所の動物を助ける方法があります。
ウクライナの動物を助けるためにあなたの支援を必要とするいくつかの組織はここにあります。
https://www.thedodo.com/.../pets-in-ukraine-heartbreaking...
~転載以上~
元記事には、外国語ですが動物たちのために尽力しているウクライナやルーマニアの団体の連絡先や寄付先が記載されています。
今この時代に、こんなことが起こっているなんて…信じられない思いです。
心が痛みます。
今こうしている間にも、恐怖に怯え逃げ惑う人々、大切な家族を失い悲しみに暮れる人々がいる…
犠牲になるのはいつも、罪のない市民や動物たち…
一日も早く、終わってほしい。
平和的に解決してほしいと切に願います。
#戦争反対
#STOP WAR
動物たちの、いま -伝えよう、声になろう-
人間の身勝手な争いのためにいつも犠牲になるのは動物たち
日本においても、第二次世界大戦時において、多くの犬や猫が戦争のために駆り出されていき尊い命が亡くなったという歴史をご存じですか?
戦争にペットまで動員されたってホント?
はい、本当です。ペットの毛や皮、肉まで供出させられました。
戦時下、不足する物資を補うため、金属や宝石、ゴムといった資源が次々と供出させられていきました。
動物の毛や皮革も例外ではなく、牛や馬、羊、鯨などとともに犬の毛皮も利用されていたのです。
当初は野犬の毛皮に限られていましたが、戦争末期にはペットの犬や兎、猫にいたるまで供出させられて、毛皮や食肉として利用されることになりました。
もともと動物の毛や皮革は重要な資源として利用されており、軍需用としても馬や牛、豚、羊など多くの動物の毛皮が利用されていました。
しかし、毛皮類は平時でも国産原料だけでは需要量をまかないきれず、その多くを輸入に頼っていました。
戦争が始まり、さまざまな物資が統制されるようになると毛皮も例外ではなく、1938(昭和13)年に「皮革使用制限規則」や「皮革配給統制規則」などが定められました。
翌年には犬の皮も水牛や山羊、鹿などとともに犬の皮も統制の対象となり、国家の管理する資源の一つとなったのです。
この頃、戦争の長期化から食糧不足が目立つようになり、節米運動が起こります。
人間の食糧が不足するのですから、ペットの食糧も不足するのは当然です。
ペットに食糧をまわすなら、人間に寄越せと言われるようになり、議会でも軍用犬以外の犬猫を処分してしまえという主張がありました(「第75回帝国議会衆議院予算委員会議録」北昤吉議員発言)。
画像1 「みんなで兎を飼ひませう」
『少女倶楽部』昭和19年12月号
毛皮の動員といえば、昭和の初めから学校や家庭で兎が多く飼われるようになりました。
兎は成長が早く、飼育も簡単であり、毛皮は兵隊用の防寒着として、肉は食糧として利用価値が高いため、飼うことが奨励されたのです。
政府の情報誌である『写真週報』にも特集が何度も組まれています(134号「兎の皮総動員」Ref.A06031072900、188号「兎は大切な軍需品」Ref.A06031078300)。
しかし、それでも皮革は不足し、1941(昭和16)年になると農林省畜産課が野犬毛皮の統制をはじめます。
野犬対策は狂犬病予防としても進められ、地方自治体が中心となって野犬の捕獲に力を入れていました。
当時、狂犬病は不治の病として恐れられ、野犬の買上げや捕獲が自治体や警察の業務としておこなわれていたのです。
1943(昭和18)年になると、さらに皮革が不足するようになります。
これは家畜の減少だけでなく、生産・加工業者が出征して減少していること、陸軍と海軍とで皮革の取り合いをしていること、公定買取価格が安いため闇市場に流失してしまうことなどがあげられます。
そのため、野犬や野良猫だけでなく、ネズミやイタチ、はてはアザラシやオットセイなど海獣の毛皮も利用されるようになります。
また、ヌートリアと呼ばれる大型の齧歯類が毛皮増産のために海外から移入され養育されましたが、戦後になると需要がなくなり放逐されました。逃げ出した個体が野生化して生態系を破壊する外来種として現在も問題となっています。
画像2 「犬の献納運動」隣組回報
『戦争と人びとのくらし』
(八王子郷土資料館、1995年)
さて、全国的な皮革不足のなか、1944(昭和19)年に軍需省化学局長と厚生省衛生局長の連名による通牒が全国の地方長官(知事)へ出され、通達された「犬原皮増産確保並狂犬病根絶対策要綱」に基づいて、軍用犬・警察犬や登録されている猟犬、天然記念物の指定をうけた日本犬を除いた畜犬は、献納もしくは供出買上することになりました。[西田秀子2016]
これにより地方自治体では畜犬(=飼い犬)を供出させる「献納運動」を展開し、東京都では回覧板で飼い犬の献納を勇ましく呼びかけました(画像2)。
この時期になると食糧不足に加え、空襲も激しくなっており、飼い犬が野良化すること、さらには狂犬病が流行ることを恐れた当局が、人びとに半ば強制的にペットを献納させ、次々に撲殺・薬殺していきました。
一部は毛皮や食肉に加工されたようですが、多くは利用されること無く廃棄されたと言われています。
回覧板に「決戦下犬は重要な軍需品として立派な御役に立ちます」と書かれておりましたが、実際は犬死だったと言わざるをえません。
人間にとって辛い時代はペットにとっても辛い時代だったのです。
戦時中動物も犠牲になった
池袋聖公会 井上こみち
中澤静江さん(62歳、練馬区在住)が戦時中に愛犬を次々と奪われた体験です。
昭和18年秋、全国の動物園の猛獣が空襲などで暴れるのを恐れ、殺された直後の事。
供出という名目で、一般家庭の飼い犬も殺されたのです。
<犬もりっぱにお国の役に立ちます。進んで納めましょう>
と隣組みの回覧板で呼びかけられました。
指定の日時に飼い主が連れて来いというものです。
中澤さんがこの命令を知ったのは十一歳でした。
中澤家には、<東亜>という名の柴犬がいました。
二頭のシャエパ-ドもいましたが、前年の冬に軍用犬として戦地に出征させました。
中澤さんが一つ蒲団で寝るくらい仲の良い犬でした。
「お国のために、犬が出征することは名誉なこと」
と近所の人は、たすきをかけた二頭を、日の丸の小旗で見送ってくれたのです。
寂しそうな中澤さんをみかねた父親が、戦争に行かなくていい柴犬を飼ってくれました。
それが<東亜>です。
その頃は食料難でしたから犬を飼える余裕のある家は少なかったのですが、中澤さんの家族は自分たちの分を削ってでも犬に食べさせる犬好きだったのです。
かわいい犬の供出を逃れようと、遠くまで連れて行った人もいましたが、中澤さんの父親は命令を守り、指定の警察署に、彼女を一人で行かせたのです。
「愛するものを容赦なく奪うのが戦争だ、自分の目で<東亜>の運命を確かめてきなさい」。
供出の朝、<東亜>にはなけ無しの米で炊いた赤飯に、味噌汁をかけてやり、おなかいっぱい食べさせてやりました。
最後の食事でした。
警察署の中庭に集められた犬たちは、自分たちの運命を分っているのか、鳴き声ひとつ上げません。
<東亜>も同じでした。
犬をどうするのか教えてと問い詰める中澤さんに、警官は黙って<東亜>の首輪を渡したのです。
犬は殺され、毛皮や缶詰肉になり戦地に送られるのだと、巷ではささやかれていました。
一人っ子の中澤さんには、兄弟の様なかけがえのない三頭でした。
私はこの話をぜひ多くの人に知ってほしいと思い、中澤さんをモデルにした物語『犬の消えた日』(金の星社刊)を書きました。
本の中には、終戦直後まで都内の派出所で警官をしていたIさんの、犬の殺戮に立合った証言も書きました。
Iさんもまた犬好きで、「立場上、供出命令を先に知り自分の犬は知人の家に隠しました。その事が分れば警察を辞めさせられたでしょう。非国民と非難もされたでしょう」 と声をつまらせたIさんもまた、戦争の犠牲者です。
本が出るとたくさんの感想が寄せられましたが、なかでも、六十代の男性の「子供のころ、田舎の山で見た犬の死体の謎が解けた。殺したものの、皮や肉をとる技がなかったのか。まさに犬死にではないか」
には、身震いする思いでした。
身近な動物の命を通じて、戦争の愚かさをいくらかでも語ることができ、ほっとしました。
十年前の取材時の事を思い出すと今でもつらくなります。
※明日のブログでは、戦争時に起きた「動物園での悲劇」についてお伝えします。