引退した競走馬に「天寿」を
「命」と向き合い25年、契機は夫の死
2022年1月16日(日) 毎日新聞
しなやかに力強く、サラブレッドが躍動する華やかな舞台――。
競馬ファンなら誰しも、少なからず気に掛かるのが馬たちの「その後」だ。
認定NPO法人「引退馬協会」(千葉県香取市)は、そんな競走馬の“余生”に四半世紀前から向き合ってきた。
会員がお金を出し合い、引退した競走馬の生活を支えるのが活動のベースだ。
競馬を題材にしたスマートフォンゲームの流行もあって、2021年には多くの寄付が集まり、注目された。
始まりは、代表を務める沼田恭子さん(69)の「命への思い」だった。
引退馬協会代表の沼田恭子さん。隣はフォスターホースのコアレスピューマ。中央競馬から船橋競馬に移籍し、12歳まで活躍した=千葉県香取市で2022年1月12日午後2時57分、藤倉聡子撮影
沼田さんは、大学時代に訪れた乗馬クラブで出会った和馬さんと結婚。
和馬さんの父正弘さんは、「天馬」とうたわれた1970年代の名馬、トウショウボーイなどを輩出したトウショウ牧場(北海道新ひだか町、15年閉鎖)の初代場長だった。
和馬さんもその後、北海道でデビュー前の競走馬をトレーニングする育成牧場で仕事に就いた。
82年に正弘さんと和馬さん、和馬さんの弟が育成牧場を開くことになり、子ども3人とともに旧佐原市(現香取市)に移った。
「順調で幸せなままでいられたら、いろいろなことに気付かないままだったかもしれません」と沼田さんは振り返る。
生活が一変したのは90年2月。
和馬さんが脳腫瘍と診断された。
手術と再発を繰り返す中で、「夢だった乗馬クラブができれば、夫も元気を取り戻せる気がしましてね」。
中小企業金融公庫に何度も通って融資を取り付け、育成牧場の隣に「乗馬倶楽部イグレット」を開場したのは93年8月。
初代オーナーとなった和馬さんは2年後の95年5月、45歳で死去した。
亡くなる前の数カ月間、和馬さんはほとんど意識がなかった。
「あの時は、何かができるから存在する意味があるのではなく、生きているだけでいいのだと、心から思いました」。
その実感が、その後の沼田さんの活動の原点になる。
沼田さんが代表を引き継いだイグレットは現在、米国で馬の調教や管理を学んだ長男の拓馬さん(43)が主任を務め、次女の曜さん(39)らスタッフも充実している。
沼田さんは「乗馬は人間のパートナー。クラブの馬は、最後まで面倒を見る」という方針を実践している。
だが、開場から間もない頃には、悔やまれる経験もあった。
けがなどで人を乗せられなくなった馬を3頭、手放したのだ。
沼田恭子さん(右)と和馬さん夫妻が1993年に開場した乗馬倶楽部イグレット。現在は長男の拓馬さん、次女の曜さん(馬上)もスタッフとして活躍している=千葉県香取市で2022年1月12日午後2時51分、藤倉聡子撮影
人間に「使えない」と判断された馬は多くの場合、食用になるなどして一生を終える。
「自分が判断する立場になって初めて、義父や夫の心の痛みに気がついた」と沼田さんは胸中を明かす。
実は和馬さんは、育成牧場で働いていた時、仕事に前向きではなかった。
1歳の冬に育成牧場に来た馬は、2歳の春にはデビューのために去って行き、再び会うことはない。
「馬が通り過ぎていくのが、夫にはつらかった。私は、夫が亡くなってから、そのことを理解したのです」
なら逆に、サラブレッドの寿命は何歳ぐらいなのだろうか――。
「馬の近くにいたのに、その答えが分からない。馬が寿命を全うするのを見ていなかったことに我ながら驚きました」
そんな葛藤から生まれた「引退した競走馬を、お金を出し合って支えられないか」という案は、周囲にはとっぴな思い付きと受け止められた。
だが、イグレットのスタッフで家族に競馬関係者がいた加藤めぐみさん(現・引退馬協会専務理事)に相談し、競馬のファンサイトで協力を呼び掛けると、40人が「参加したい」と申し出てくれた。
97年、引退馬協会の前身「イグレット軽種馬フォスターペアレントの会」を設立した。
会員が競走や繁殖を引退した馬の「フォスターペアレント」(育て親)としてお金を出し、各地の牧場や乗馬クラブでの余生を支える事業を始めた。
「フォスターホース」の第1号として98年にイグレットへやって来たのはグラールストーン。
91~93年の有馬記念で3年連続3着に入るなどGⅠでは勝ち切れない善戦ぶりが愛されたナイスネイチャの半弟(母が同じウラカワミユキ)で、11年2月に死ぬまで長らく会の「広報部長」として活躍した。
17年に牝馬国内最長記録の36歳で天寿を全うしたウラカワミユキもフォスターホースになった。
21年に競馬を題材にしたスマホゲームで人気が再燃したナイスネイチャも、種牡馬引退後はフォスターホースとして北海道で暮らしている。
同年、33歳の誕生日プレゼントとして寄付を募った「バースデードネーション」では、約1万6000人から目標の18倍もの3582万円余が集まり、新たに12頭をフォスターホースにするための治療や輸送費などに充てられた。
病気で意識不明になった夫を前に「生きているだけでうれしい」と感じ、使えないと判断した馬を手放した時には競走馬に携わってきた夫の痛みを知った。
そうした動機から、沼田さんが「自分自身のため、という一面もあった」という、会の設立から25年。
11年にはNPO法人・引退馬協会設立、13年には認定NPO法人認証と形を整えた。
現在、各地で暮らす23頭を含めてフォスターホースとなった馬は36頭。
月額2000円(0・5口)から馬の維持管理費を提供してくれるフォスターペアレントは1100人を超える。
フォスターホースのルックトゥワイス。2019年に中央競馬の重賞・目黒記念(GⅡ)で優勝した=千葉県香取市で2022年1月12日午後3時1分、藤倉聡子撮影
しかし、「36頭は少ない、と思われる方も多い」と沼田さんは明かす。
毎年7000頭のサラブレッドが生産され、それに近い頭数が引退する。
サラブレッドの預託には月に6万~15万円がかかり、年齢を重ねるにつれて獣医療費もかさむ。
30歳を超える長寿の馬も少なくなく、長い余生を安定して支えるには、精いっぱいの頭数だったという。
「救えるのはほんの一握りではないか」という見方も当然ある。
「全部を救えないから意味がないと言ってしまったら、何も始まらない。1頭ずつ救うことが大事だと考えています」と沼田さんは力を込める。
フォスターペアレント事業だけでは引き取れる頭数にも限界があるが、引退した競走馬を支えたいと考える人は少なくないこともまた分かった。
05年、馬を引き取りたい人を支援する「引退馬ネット事業」を始めた。
相談に乗ったり、預託先を紹介したりするほか、引退馬を支える団体の設立・運営を継続的に支援している。
17年には日本中央競馬会(JRA)が「引退競走馬に関する検討委員会」を発足させるなど、馬の余生を考える機運は、競馬関係者にも高まっている。
引退馬協会では、フォスターペアレントがフォスターホースと触れ合うことを重視している。
現在フォスターホース3頭が暮らすイグレットでは、新型コロナウイルスの感染拡大前は2カ月に1回のペースで交流の場を設け、馬の引き方や手入れの方法を教えたり、馬に乗ってもらったりしてきた。
初めて馬に触れる人も多く、馬を知る絶好の機会となっている。
沼田さんは今、「馬の環境を良くするために、馬が好きな人、馬を知っている人を増やしたい」と考えている。
コロナ禍の前には大阪府と兵庫県で一般の人にも呼び掛け、馬の習性や馬との接し方を伝える講習会を開催した。
「多くの人にとって馬がもっと身近になれば、馬が生きられる場も広がると思うのです」。
天寿を全うするその「1頭」が、増えていくことを願っている。
【藤倉聡子】
引退後の競走馬はほとんどが殺処分
日本では毎年7,000頭ものサラブレッドが生産されていて、引退後の受け入れ先がないということも珍しくありません。
毎年かなりの数の競走馬が引退していくので、全ての馬の受け入れ先を見つけるのは不可能です。
競馬では様々なドラマが生まれ、G1レースでの熱戦は多くの人を魅了しています。
私たちが普段見ている表の部分とは違う、裏の部分があるというのも覚えておきたいところです。
競走馬は引退後に、ほとんどが殺処分されているのが現状です。
引退馬のおよそ9割が殺処分されていると言われていて、ショックを受けてしまう競馬ファンもいるかもしれません。
人間の都合により殺されているとも考えることができるので、理不尽に思ってしまう人も多いのではないでしょうか。
競走馬は、経済動物だと言われています。
経済動物とは、肉・乳・卵・皮・労働力などの生産物を利用するために飼育されている動物のことです。
家畜のような存在であり、競走馬も社会的には同じように捉えられています。
競馬を支えている競走馬は、多くの人たちの労働力の源です。
その労働力を失わないために、毎年多くのサラブレッドが生産されているのです。
競馬を楽しむためには、引退後に殺処分されている事実にも向き合わなければいけません。
在日本では、年間で7000頭以上のサラブレッドが生産されています。
生まれてきた馬たちは、2年間のトレーニング後、その3割程度が晴れてデビューを果たします。
しかし競馬の引退は早く、5~6歳、遅くとも7歳を迎える頃には引退してしまいます。
長く生き続けて30年。馬の平均寿命は25歳といわれています。
現在乗用馬として登録されている馬は約6000~7000頭です。
競馬のために速く走ることだけを目的として改良され、年間多くの生産が行われる一方で競馬を引退した馬の人生は全く保障されていないのです。
競走馬を引退した馬たちの行方
花岡貴子ライター、脚本&漫画原作、競馬評論家
競走馬を引退した馬がどうなっていくのか、だが…。
日本でのサラブレッドの生産は1992年に10000頭を超えてピークをむかえたが、その後は減少傾向となったが、2012年に下げ止まりをみせて再び上昇傾向にある。
注:この表で「日本ダービーを目指した頭数」とあるが、この数字は日本におけるサラブレッドの生産頭数に外国産などを若干数だが加算している。日本では外国で生まれた馬が最初に日本で競走馬登録をした場合はクラシック競走に出走できるため、このような表記とした。
中央競馬に関わる競走馬の頭数一覧/ 2021年6月30日現在 著者作成
この表からもわかるとおり、毎年約7000頭も競走馬を目指すサラブレッドが生まれ、うち、JRAに競走馬登録される馬は毎年5000頭弱である。
しかし、3歳のうちに一定の成績が収められない馬はその後JRAに所属していても出走できるレースがなくなる。
地方競馬に転厩して既定の勝ち星をあげてJRAに戻るか、別の道を行くか、しかない。
競走馬を引退した馬たちは次世代に血を繋ぐために繁殖に上がるか、乗馬になるか、などの道があるが、毎年これだけの頭数が生まれているのだから、全ての馬が繁殖や乗馬といった"生きたかたちでの経済活動"を継続していくのは不可能だ。
中には動物の餌になる馬もいるが、そういった元競走馬たちはいったん"乗馬"などの違う名目で中央競馬を引退し、その道をたどる。
筆者が現在、引退馬にしていること
次に具体的に筆者がしていることを書いておく。
筆者はツルマルツヨシという競走馬を引き取り、ツヨシが死ぬまで大切にし少しでも長く元気に過ごしてもらおう、という主旨である「ツルマルツヨシの会」の立ち上げと運営の手伝いをしている。
ツルマルツヨシの競走馬時代の担当厩務員をしていた中西氏から「どうしたらツヨシを死ぬまでサポートできるだろうか」と相談を受け、NPO法人である引退馬協会を紹介。
その後、会の運営のお手伝いをしながら、現在に至る。
会員の皆さんとのやり取りはすべて中西氏が自らやっており、立ち上げ資金から呼びかけ、とりまとめ、何かトラブルが起きたときの対処などを一手に引き受けている。
中西氏はすでにJRAの厩務員は定年退職しているが、その後は「少しでも自分のできる範囲で自分の経験が役に立てば」と、いくつかの元競走馬の養老牧場を手伝ったりしている。
私たち人間は、動物の命と向き合うということを考えず、モノ扱いのように身勝手に罪深きことをやっている。
今までの歴史の中で人間は動物に対し何をしてきたのだろうか・・・