ペットと暮らせる特養から 若山三千彦
「 文福(ぶんぷく)、ありがとう」
2020年5月4日(月) yomiDr.(ヨミドクター)
[看取り犬・文福](1)
重度認知症の高齢者が劇的回復 元保護犬の特別な力
唇がかすかに動いたかと思うと、次の瞬間、佐藤トキさん(仮名)は静かに息を引き取りました。
その傍らには、文福がしっかりと寄り添っていました。
入居者をベッドで看取る文福
◆10人以上を看取った文福 認知症も癒やす
特別養護老人ホーム「さくらの里 山科」で暮らす文福は、柴犬系の雑種で推定10歳。
保護犬(保健所から引き取られた犬)出身で特別な力を持っています。
同じユニット(※)で暮らすご入居者様が亡くなるのを察知して、その傍に寄り添い、最期を看取(みと)るという行動をとるのです。
と言うと、みなさんは「そんなばかな」とおっしゃるかもしれません。
しかし、これはれっきとした事実なんです。
私たちのホームで、文福はもう10人以上のご入居者様が亡くなるのを看取ってきました。
文福のおかげでご入居者様方は、穏やかに、安らかに旅立つことができました。
文福が、ご入居者様を看取る活動が、あまりにも驚異的だったので、拙著「看取り犬・文福の奇跡」では、その看取り活動にスポットを当てました。
しかし、文福の特別な力はそれだけじゃありません。
文福の最も奇跡的な力は、認知症を癒やす力なんです。
私たちが、文福の二つの力、ご入居者様のご逝去を予測して看取る力と、認知症を癒やす力の真価を理解したのは、佐藤さんが入居した時のことです。
佐藤さんは入居時、80歳代で、重度の認知症のため、息子さんの名前も顔もわからなくなっていました。
感情を表すこともなく、いつも無表情で、言葉を発することもほとんどなくなっていました。
息子さんが声をかければ、食事をしたり、トイレを使ったりはできるのですが、自らそのような動きをとることはありませんでした。
重度の認知症の典型的な状態の一つと言えます。
※ユニット
さくらの里山科の場合、居室10室(完全個室制です)と、共有のリビング、キッチン、3か所のトイレ、浴室、脱衣室で構成された区画のこと。玄関もあり、一つの独立した住居のようになっている。
いわば10LDKのマンションのようなつくり。
さくらの里山科は、短期利用のショートステイまで合わせると120人の定員となり、12のユニットが置かれている。
そのうち2階の2ユニットが犬と一緒に暮らすユニット、2階の別の2ユニットが猫と一緒に暮らすユニット。
各ユニットの中で、犬や猫は自由に暮らしている。
◆言葉を発することもなかったのに、笑顔で「ポチや」
息子さんたちは、佐藤さんが犬好きだったことから、「犬と一緒に暮らせる老人ホームに入れれば、少しでも元気になるかもしれない」とわずかな望みを託して、さくらの里山科を選んだのでしょう。
「ダメでもともと」という気持ちだったと思いますが、その結果は、息子さんたちの期待をはるかに上回るものでした。
入居して数日後、佐藤さんは文福が近寄ってくるのを見ると、笑顔で「ポチや」と呼びかけて、抱きしめたのです。
文福はギュッと抱きしめられても、めちゃくちゃになでられてもおとなしくしており、佐藤さんの顔をペロペロなめていました。
ごくささやかなことですが、自ら動くこともない、言葉を発することもない佐藤さんが、犬に呼びかけて抱きしめたのは、息子さんにとっては信じられないことでした。
ここから、佐藤さんの劇的な回復が始まったのです。
ちなみにポチとは、読者の皆さんのご想像通り、佐藤さんが昔飼っていた犬の名前です。
入居者にかわいがられ、笑顔?の文福
◆文福を探して歩き回り、息子の名前や顔を思い出した
入居から2週間後には、佐藤さんは「ポチや、ポチや」と、文福を探して自ら歩き回るようになりました。
文福は「ポチ」と呼ばれても、大喜びで佐藤さんのもとに駆けてきて、バフッと抱きついていました。
3週間後には、佐藤さんは「文福」としっかり名前を認識して呼びかけられるようになりました。
そして1か月後、奇跡が起きます。
訪れた息子さんのことがわかったのです。
息子さんの名前も顔も思い出したのです。
一時的にではありますが、認知症が大幅に回復したのです。
おそらく、佐藤さんが息子さんの顔や名前がわからなくなったり、無表情、無反応になったりしたのは、認知症の症状ではなく、認知症から併発した老人性うつ病の症状だったのだと思います。
認知症は脳の萎縮(いしゅく)など、脳の機能が損なわれるものなので、これほど大きな回復は難しいはずですから。
佐藤さんは、文福と触れ合うことにより、うつ病が改善され、劇的な回復が起きたのでしょう。
それでも文福の癒やしの力は素晴らしいですよね!
◆亡くなる前日からベッドに寄り添い、看取り
その後、佐藤さんの認知症は徐々に進行していき、トイレの使い方もわからなくなり、次にはトイレの場所がわからなくなり、常にオムツを使うようになります。
食事を食べるということが理解できなくなり、職員が食事介助して、食べ物を口に入れるようになります。
認知症の真の恐ろしさは、 徘はい徊かい とか、被害妄想とかではないんです。
食べるということ、排せつするということが理解できなくなることなんです。
しかし、それほど認知症が進行しても、息子さんのことは2度と忘れず、文福のことも最期までかわいがっていました。
そして自然と体が衰弱し、食事を受け付けなくなり、佐藤さんはろうそくの炎が消えるように、ゆったりと死に向かっていきました。
亡くなる当日、寝たきりになった佐藤さんのベッドに文福が上り、寄り添っていました。
文福が顔をなめると、佐藤さんは、かすかにほほえみ、わずかに動く手を動かして文福をなでていました。
そして微笑んだまま、佐藤さんは旅立ちました。
文福に看取られながら。これ以上はないと言っていいほど、幸せな最期でした。
これが文福の看取る力と癒やす力なのです。
若山 三千彦(わかやま・みちひこ)
社会福祉法人「心の会」理事長、特別養護老人ホーム「さくらの里 山科」(神奈川県横須賀市)施設長
1965年、神奈川県生まれ。横浜国立大教育学部卒。筑波大学大学院修了。世界で初めてクローンマウスを実現した実弟・若山照彦を描いたノンフィクション「リアル・クローン」(2000年、小学館)で第6回小学館ノンフィクション大賞・優秀賞を受賞。学校教員を退職後、社会福祉法人「心の会」創立。2012年に設立した「さくらの里 山科」は日本で唯一、ペットの犬や猫と暮らせる特別養護老人ホームとして全国から注目されている。19年7月、ホームでの人とペットの感動のドラマを描いた「看取(みと)り犬(いぬ)・文福(ぶんぷく)の奇跡 心が温かくなる15の掌編」(東邦出版、1389円税別)を出版、大きな反響を呼んだ。